今日で7月も終わりです。長梅雨のため、今月の現場は全然進みませんでした。

その分、事務作業がはかどり、机の上がすっきり片付きました。

7月の日経「私の履歴書」は加山雄三さんでしたが、今日が最終回でした。

今月は毎日欠かさず読みました。読んだ率直な感想は、まさに芸能界の天国と地獄をかいくぐって今の加山さんがあるんだなと知った事です。

世代的には私の親父と同じ年、昭和12年生まれ、今年72歳の加山さんですから、私の生まれた頃は俳優としてデビューされていたわけです。

子供の頃は、俳優上原謙の息子だという事で大変苦労されたそうです。

そして黒沢明監督、赤城圭一郎さんとの出会いと別れ、親族の事業の失敗、スキー中の大事故、そしてそこからの復活と、想像を絶する波乱万丈の30回でした。

とても72歳とは思えない、今でも若々しい多才な加山さんですが、そんな経験をされてこられたとは、今まで全然知りませんでした。

ヨットにスキー、ギターに油絵、陶芸と色んな才能を持っておられる方ですが、生涯現役でいるために酒、たばこはやめられたそうです。

私も一応、晩酌はやめて1年、飲むのは外での仕事上の飲み会のみ、たばこはやめて20年、趣味は30年ぶりに復活したギター、バイク歴30年、雨の旅先一人カラオケ、筋トレその他、、、。

晩酌の酒、それもビールを断つと腹、下腹部がテキメンに締まります。それプラス腹筋を集中して鍛えると、うっすらですが蟹の腹になってきます。

この先、家の一番下の子が成人するまで後15年は現役で働く予定ですから、健康管理は大切です。加山さんみたいにいつまでもかっこ良く、GパンとTシャツが似合う体でいたいですから。

 

 

 

 

 

 

 

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   『 男は中洲という街で女は中洲と意地を張る 』  by青江三奈

 

昔むかし、その昔、25年前の大昔、一人の田舎者の青年が中洲という不夜城に初めて足を踏み入れました。

と書くと放送禁止の方向に話が行きそうですが、そっちには行きません。と言うか行った事がありません。本当です、、、。

今はありませんが、那珂川沿いに城山観光ホテルが入るビルがあり、その5階に「キャッツ」と言うディスコがありました。そこのカードを未だに捨てずに持っていたので、エアポートの続編を思い出しながら書こうと思います。

当時、勤めていた屋根工事の会社の福岡営業所が開設したのと同時に長崎から福岡に転勤になりました。

福岡市の隣に春日市春日原という所があります。その春日原に会社の寮がありました。寮といっても木造アパートの上下2世帯分を借りているだけなんですが。

まだ福岡ドームも無く、たまに平和台球場まで巨人戦のナイターを職人さんと西鉄に乗って見に行ったりしていました。原監督が現役の時代です。

週末、他の職人さんは長崎に帰ってしまうので、土曜の夜から月曜の朝までは一人でした。

来た当初は土地勘が無いので、もっぱら電車で天神まで行ったりしていましたが、だんだん道も覚え出し、行動範囲が広がりました。

といっても、自分の車は無かったので会社のトラックを私用で乗り回していました。

いすゞエルフ低床2トン車、ボディーには、〇〇セメント工業株式会社、ナンバーは長崎ナンバー、三井タイル、アサノセメントその他スポンサーさんの広告、これで土曜の夜、職人さんが帰るのを見届けてから速攻で中洲方面にこのエルフで爆走していました。

今思うとあり得ないスタイルですが、当時は恥ずかしいという感覚が無かったんだと思います。

あの繁華街を堂々と長崎ナンバーのエルフで突っ走っていました。裏通りのチェーンが張って無い駐車場に滑り込ませ、中洲のネオンに向かって歩いて行ってました。

そのディスコ「キャッツ」ですが、地元のエアポートとは比べ物にならない程の豪華なホール、卓越したテクニックで回すDJ、客層の品の良いこと、良い事、すべてが洗練されていてかっこよく良く見えました。あのたくさんのお客さんの中でどこに、会社のエルフ2トンで来たお客さんがいるでしょうか?

この頃はバブル景気の始まった頃で、仕事も超多忙で忙しく、遊ぶ暇も無い位仕事していた感がありますが、今思うとあの頃が仕事も遊びも一番面白くて、楽しかった様に思います。

そんな夜も更けて、また春日原まで筑紫通りを爆走して帰っていくわけですが、それもしばらくしたら飽きてきて、だんだん行かなくなりました。めでたし、めでたし、、、。

 

※次号予告  次回はKBC九州朝日放送近くにあった「マハラジャ福岡」の巻です。(まだ行くんカイ!)

  

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                                     「911DAYS 2009春号」表紙より

今日も一昨日に続き、車つながりで書こうと思いますが、ドイツのスポーツカーポルシェの専門誌を読んでいて、気になる写真、新聞記事をリンクして紹介します。

 

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この専門誌の中のポルシェジャパン社長の記事の右側に911の写真がありますが、その背景の建物に目が止まりました。

 

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かなり大きいむくり屋根の棟には鳳凰らしき鳥の姿が写っていました。

記事の最後にはよくロケ地等書いてありますが、これには載っていませんでした。

どこかの大きいお寺の伽藍みたいな雰囲気ですが、気になるところではあります。

また、6月位の日経の記事に、「人こと」と言うタイトルのコラムの中で、上のポルシェジャパン社長の記事が載っていました。

黒坂社長いわく、「ポルシェは究極のエコカー」だそうです。と言うのも登録されている車の7割は廃車にならないで、現在も走っているからだそうです。

そう言われると確かにそうかなと思います。私もポルシェは無理ですがいまだに1959年式のビートルを登録抹消した後も、ガレージに保管、たまにエンジンをかけてオイルを回してやって、いつでも登録出来る状態にしています。

ポルシェもワーゲンも遡ればナチスドイツの軍用車でつながるんですが、日経を読んでいると、ポルシェはフォルクスワーゲンの筆頭株主だそうです。年間10万台弱の生産台数のポルシェが630万台生産するフォルクスワーゲンを持ち株会社で傘下に置いた形だそうです。

黒板社長の記事によると輸入車はエコカー減税の対象では無いそうです。

しかし、廃車にならないという事はそれ自体エコなわけで、たしか、13年以上経過した車を買い替えると、それも減税対象になったと思いますが、よく考えるとそれが本当に地球に優しいエコかと思いますが、私的な感覚で言うと廃車にしない事自体が大切だと思いますが、それでは経済が活性化しないので自動的に10年サイクルで買い替えをする様に考えられた経済対策なのかなと考えます。

私の小学校からの親友は25年前の911カレラに乗っていますが、何年経っても市場価格はゼロにはならないそうです。ただ、正規ディーラー物じゃないと、パーツがめちゃくちゃ高いそうです。

例えば、クラウンの新車でいうと乗り出し価格で500万前後すると思いますが、上手く乗って15年位で下取りに出すとすると、限りなくゼロに近い査定価格になっていると思いますが、車を耐久消費財と割り切るには、あまりにも車に申し訳ないような気がしますが、、、、。

とこれを書いている横で携帯のワンセグでNHKの「ソングス」に日曜日に拝めなかった矢沢さんが綺麗に手入れしてありそうな70年代の渋いベンツで登場しました・・・。

やっぱり、私だけではありませんでした。今年アラ還の偉大なスーパースターがそう語ってくれています。ですが、還暦でカブトムシの車高短ではやはり無理がありそうなので、早くベンツに乗れる様にならないといけませんが。先の長い話ではあります、、、。

 

 

 

 

 

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                                 Nagasaki omura SA 2004

♪「太陽をいっぱいに吸い込んだ新車のシートの匂い爽快」♪    

                             Brand New Honda    ckb

 

5年くらい前の、クレイジーケンバンドのアルバムに入っていた曲ですが、その頃、この車を購入しました。

ワイド&ローなスタイルに2,4リッターのDOHC、Vtecで200馬力はワンボックスの枠を超えた、ホンダのレーシングスピリットを感じました。

そんな同じ思いをもう一人、思っていたか、いなかったか分かりませんが、1週間も違わない位の差で納車した知人がいました。今、その知人はもうこの世にいません。

知り合ったのは8年位前、子供の保育園の保護者会でした。

彼は私と同い年で、職業も住宅リフォームの会社を経営していて、何かと話が合い、何度か屋根工事も御世話になりました。

しかし同じ車を買った事は、お互い一年近く知りませんでした。それも、同じ色、サンルーフまで相談したようにオプションで付けて・・・。

ある日、保育園の行事でお互い車で遭遇し、二人して唖然とした事を思い出します。

聞くと、違うホンダのディーラーから納車したとの事、どうりで何回も行くのに会いもしないし、話も聞かないわけです。

そんなこんなで笑い話になりましたが、そんな彼が一年後くらいにこの世からいなくなるとは、想像もできませんでした。

正月前の寒い時期だったと思いますが、急死でした。くも膜下出血だったそうです。

友人からその電話を受けた時、信じられませんでした。何日か前にも、保育園の飲み会で一緒に飲んでいたからです。

思えば、自分と同じ後厄の年でした。

酒が好きで、良くスナックでカラオケを歌っていました。葬儀の時はとても彼の死に顔は見れませんでした。子供もまだ小さい時で、お互い今からがんばって行かなければ行けない時に、彼は突然いなくなりました。

しばらくはそのショックから抜け出せませんでしたが、今でも時々思い出しては、もう少しやれる事はやっていたら良かったかなとか考えますが。

彼からは仕事上、見習う事がいろいろあり、自分が持っていないものを彼は持っていました。

心優しい男でしたから、私の厄まで一緒に持って行ってくれたのかも知れません。

だとしたら、彼の分まで、働き倒さないとなりません。

あれから4年経ちますが、同じ車で、二人立ち尽くしたあの日、今でも不思議な縁(えにし)の糸の存在を感じさせるシンクロニシティな思い出です。

 

 

 

 

 

 

                      

 

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『Higher Ground2009 海の中道』 記録的な豪雨のため中止になりました。

写真のような青い空の下の夏フェスになるはずだったんですが、、、。

 

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予定では今の時間、福岡市東区の海の中道海浜公園野外劇場で、オオトリの矢沢さんのステージを観ているはずだったんですが、25、26日両日とも中止になりました。

25日が、藤井フミヤ、スガ シカオ、いきものがかり、その他etc。

26日が、KREVA、スキマスイッチ、ユニコーン、そして矢沢永吉。

昨日の昼前にその日の中止が解り、今日も晴れはしないけども、悪くて小雨位にしか考えてなく、傘は無理でしょうから、雨合羽持参で朝から出発する予定でしたが、朝8時にキョードー西日本のホームページで中止を知り、がっくりでした。もしパソコンを開いていなかったら、そのまま行っていました。

しかし、24日夜からの雷雨は強烈でしたから、無理もありません。福岡は電車が止まるくらいの雨でした。今日も一日中、降ったり止んだりの天気で一日、自宅で本を読んだり、部屋の掃除、机の上の片付け、夕方、筋トレしてパンパンに張った状態でブログを更新しています。

この天気、いつまで続くんでしょうか?今週で7月も終わりです。

子供も海水浴に連れて行かなければなりませんが、この天気では海どころではありません。

 

俳壇

   海中の 夏夢まぼろしか HG

   夏休み 朝から晩まで アニマックス   晴れ男15枚ハゼ

 

 

 

 

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『賭け事はするもんじゃないという父の戒めを受けていたことも理由の一つであったが、(中略)私にはもっと興味があり、もっと夢中になれるものがあったからである。』

 

今日も一日中、雨でした。お陰で事務作業がはかどります。

この本は、今日読み終えました。「わがギャンブル」という項が最後の方にありました。

本田宗一郎氏は、生涯ギャンブルはされなかったそうです。仕事自体が長丁場の博打だったと書いてあります。

私は、しない以前にギャンブル運が無いため、最初から手を出しません。

それと、煙草を吸わない為、あのうるさい音楽と煙草の煙で具合が悪くなりそうなのと、長時間じっと台の前に座っている事が性格上、出来ないからです。

今日も朝から雨が降ったり止んだりで、はっきりしない天気でしたが、夕方犬の散歩で通りかかるパチンコ屋さんの広い駐車場は、雨になると開店前から満杯です。

余計な御世話ですが、仕事帰り、気分転換で打つ位なら解りますが、開店から閉店まで座って過ごす事自体、時間が勿体無くてとても出来ません。

晴れたら晴れた日の仕事、雨の日は雨の日の仕事、やらなければいけない仕事は山ほどあります。

よく聞く話に、仕事が無いからパチンコ屋さんに通っているという職人さんがいますが、暇だからといって、パチンコ屋さん通いしていたら、ますます暇になっていくと思います。

じっと待っていても仕事は来てくれません。今まではそれでも良かったんでしょうが、この不景気の世の中、それも地方のまた地方の建設業のマーケットです。そんなに簡単に仕事があるはずがありません。

企業であれ、個人の自営業であれ、営業努力無しの受注は考えられないからです。

仕事だけ真面目にしていれば、向こうから仕事がやってきた時代もあったとは思いますが、現代の斜陽産業と言われて久しい建設業です。

最近思うことは、あまりにも元請けの会社の営業力、企画力に頼りすぎてしまい、最終的な顧客である建築主、一般住宅で言えば御施主さんに対して、プレゼンテーション、プレゼン力が私も含めて下請けさん、職人さんには無さ過ぎると言う事です。

企業であれ、一人親方であれ、それぞれの営業方針、ビジネスモデルがあると思います。

それには何をすればいいかは、それぞれ違うと思いますが、どんな仕事であれ、最終的にはサービスを提供する、サービス業だと思います。私の場合、屋根を葺くサービスの屋根工事業です。

仕事が無いからと大村ボートに通うワケには行きません。(外港まで行けば買えますが・・・。)

と偉そうな事を書いてしまいましたが、半分は単に勝てないから行かない、やらないだけの事なんですが。

最後の欄に書いてあった文章を紹介してこの本の読書感想文を終わりたいと思います。

 

『勝たねばならぬ仕事に人生を賭けている以上、勝つことの意欲は大切である。

大げさな様だが、一瞬ごとに勝負カンを働かせながら仕事に打ち込む毎日は、まさに壮大なギャンブルの場面のようなものである。』

                   本田宗一郎 『私の手が語る』 より

 

 

 

 

 

 

 

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『太宰府市大字通古賀42-1』 すべてはここから始まった・・・。

 

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昨日、陸運局に車検に行ったついでに、トラックのナンバーを返却して廃車の手続きをしました。

18年間、たいした故障もしないで良く走ってくれました。去年くらいからセルモーターが調子悪くなり、直前まで快調に回っていても、一度エンジンを止めて、またすぐかけるとグルッとも言わなくなります。

一度は福岡の古賀サービスエリアで止まり立ち往生し、バッテリーをいじくっていたら、突然何事も無かった様に動き、そのままノンストップで島原まで爆走し、帰り着きました。

修理すれば乗れない事もないんでしょうが、思い切って廃車にしました。

 

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『 31万8196、8㎞ 』

18年で移動した距離です。年間18000キロ近く走った計算です。

オデッセイもここまで使い倒し、乗り潰せば元は取れます。

思えば、このトラックで淡路島まで修行に行き、このトラックで種子島まで旅仕事に行き、屋久島に縄文杉を見にいき、鹿児島に飛び込み営業に行き、枕崎でワールドカップを聞きながら車中泊し、・・・・・。

この走行距離がハードな瓦屋さんの歴史を物語ってくれている様です。

車検上は廃車済みですが、とても解体屋さんに渡す心境にはなりません。

この先、多分無いとは思いますが、東南アジア、中国に活路を見い出し、中長期プロジェクト、現地法人「ルーフテックハヤシダ インターナショナルチャイナ統括本部」が、間違って軌道に乗り、ユニクロのファストリ、ジャスコのイオン、そして未来のルーフテックハヤシダホールディングス・・・。

その暁には、ミュージアムを建てて、この6人乗りエルフ最大積載量1、25トンを展示しないといけません。

それまでは、鍵のかかる物置として第二の人生、余生をゆっくり過ごしていただきたいと思います。

 

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 『 虎は死して皮を残し エルフは死して思い出を残す 』

 

 

 

 

 

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今日は、長崎陸運局までユーザー車検にきました。

 

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いつもは2つのラインが混雑して待たされますが、今日はなぜか空いていました。

 

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車台番号、タイヤ、ライト、、ウィンカー、ワイパー、そしてラインに入っていき、サイドスリップ、前後ブレーキ。

 

 

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ローラーの上で40キロ出してパッシング、ライトの光軸。

検査中に写真なんか撮ってる場合じゃないんですが、、、。 

 

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最後は下回りの検査、何とかここまで1回でパスしました。

ラインの最後で検査官から判をもらい、無事終了です。

 

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自賠責22470円、重量税50400円、証紙代1400円、印紙代400円、申請用紙代70円、合計74740円、プラス交通費プラス自分の手間代。

今回は、未曾有の100年に一度の経済危機の影響のため、ホンダカーズ島原さんには申し訳ありませんが、任意保険だけ御願いする事に相成りました。

島原の皆様でお車を購入予定の方がおられましたら、インサイトあたりどうでしょうか?

親切、丁寧な営業の方を紹介させていただきます。

5年で75000キロ走ったオデッセイですが、今の経済状況だったら多分インサイトを買っていたかも知れません。

この先、新車を買える状況には当分無いと思いますので、5年で7万5千㌔ですから、20年で30万キロ、大事に乗れば何とか乗れると思います。その後は、ガレ-ジで埃かぶっているビートルを引っ張り出して、綺麗にレストア、ローダウンして乗るつもりです。60歳の還暦ですが・・。

 

    

 

 

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『 今度の山はでかいぞ、やまさん・・』  BY 藤堂俊介(石原裕次郎)

 

今日は1日中、事務所で電卓と三角スケールで積算していました。

来年、春先にかかる御堂の正確な枚数を拾うため、見積書の数量をもう一度、積算し直しました。

瓦は淡路産の一体型本葺きです。

着工まで半年以上ありますが、早めに準備、段取りしておかないと、ちょっとした油断で拾い忘れ、計算ミスで足らなかったり、余ったり、余分なロスが出ます。

今回は柱間で十間四面の屋根面積680㎡、200坪余りの大きな本堂です。

先日、宮大工さんの加工場の原寸小屋で、瓦の割付け、納まりを打ち合わせしてきました。

最近の原油高で原材料のコストがどんどん上がって、屋根に載る瓦の単価も年々上がっています。

一般住宅と違って、1枚当たりの値段が高いので、1枚残らず使い切る勢いで発注しないと、長期不要在庫になってしまいます。

自分で焼いて作れる物なら作るんですが、そうもいかないので、餅は餅屋、瓦は窯元さんに御願いするしかありません。

私の田舎なら新築の家が建つ位の金額が、御堂の屋根に載ってしまいます。

朝から夕方まで図面と電卓を一日中見ていたら、目が疲れました。

ところで今日、昼前に急に暗くなり、またすぐに明るくなりましたが、あれがもしかして皆既日食だったんでしょうか?。

 

 

 

 

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 『顔はダメだよ、ボディだよ、ボディをやるんだよ!!』 by 三原じゅん子

 

今日は海の日でしたが、一日中雨でした。

朝から、最近サボって使っていない、倉庫の中に作っている筋トレルームを大掃除しました。

近くにはジムが無いので、通販で買ったこのベンチプレス、メタボ防止に役立っています。

25歳前後の時には、ベンチで100キロ近く上げた記録がありますが、体力の低下と一人でトレーニングする時の万が一の事故をたまに聞きますので、60キロを10回の3セット位に抑えています。

それだけでも、大胸筋はパンパンに張ってしまいます。たまにしかしないと、2日後くらいに筋肉痛がきます。

 

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 ベーシック J 』

 

このポスターは約20年前、太宰府の西鉄都府楼駅のホームに貼ってあったジャガージャパンのポスターです。

駅長さんに御願いして、期限が過ぎてから譲ってもらいましたが、何の変哲も無い英車が写っているポスターですが、その写真の右側に書いてあった一つの詩が気に入ったからです。

 

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『 青年は、ベーシックJをめざす。 』

 

青春とは、人生のある期間ではなく、こころの持ちかたを言う。

逞しい意志、燃える情熱、人は理想を失うとき、初めて老いる―

                        サムエル・ウルマン

 

20年前、勤めていた会社を辞めて独立したばかりで、試行錯誤、悪戦苦闘していた時期、この言葉が心を揺さぶりました。

あれから20年経ち、計画通りなら右下に少し写っている、ジャガーXJ6の4、0かダイムラーの12気筒あたりに乗っていなければなりませんが、いまだにあの時の夢は叶っていません。

(ちょっと見、以前乗っていたサメブルに見えなくも無いですが、、、。)

幻の詩人が言う通り、理想を失なわない限り青春だそうですから、顔は鍛えようがないので、体だけは鍛えて筋肉をアップし、基礎代謝を増やさないと、すぐに腹が出てきます。

ジャガーのJ、和のジャパンのJ、和型のJ、三原じゅん子のJ・・・・・。

先日、リサイクルショップに行った時、新品のブートキャンプのDVDが山積みの大安売りでしたが、多分三日坊主になると思い、買いませんでした。

 

 

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                     『私の手が語る』 挿絵より

 

『 成功とは99パーセントの失敗に支えられた1パーセントである。 』

                                                                                    本田宗一郎

 

翁が部下と第一線で仕事されていた頃、部下が失敗した場合、容赦なく怒鳴りつけ、口より先に手が出たそうです。

また、第一線から退いた直後は、朝になると車に乗り、研究所へ行こうとして思い直して引き返した事が何度とあり、仕事を忘れるために趣味の絵に没頭されたそうです。

以前、トステム(現在の住生活グループ)創業者の方の「寝ていて人を起こすな」という言葉を紹介しました。自分は寝ていて、人にああしろこうしろと指図するなといった意味ですが、自分の日常に置き換えても、考えさせられる言葉です。

自分が出来ない事は、人には指図出来ません。言われた方も真実味が無い分、素直には従いません。自分が率先してやって初めて回りに伝わります。

創業期の本田氏の片腕であり後の副社長、藤沢武夫氏に関して、自分が不得意な営業や財務は藤沢氏に任せて、その分を徹底して現場に集中されたそうです。

また、会社印や実印も実際見たことは無かったそうです。そこまで徹底的に現場にこだわった社長だからこそ、トップから退いた後も無意識の内に、朝になるとハンドルを握り、会社に向かって走って行く習慣が身に付いていたんだと思います。

 

 

 

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                   『私の手が語る』  挿絵より

 

『 私は、他人の真似をするのが大嫌いである。 』

本田宗一郎氏の言葉ですが、バイク好きの方なら御存知でしょうが、70年代後半にバイクに興味を持って以来、今も乗っていますが、試験場で乗った実技の車両がCB750でした。

カワサキより数年前に出たホンダのCB750ですが、最初の直列4気筒のナナハンだったと思います。

ヤマハは、モトクロスや、2サイクルのレーサーがレースで活躍していました。現在のモトGPのずっと前の時代です。

カワサキもZ以前はW1、W3の4サイクル2気筒、2サイクル3気筒のマッハの時代です。

この項で本田宗一郎氏が、「企業の体質を危ういものにするのは依頼心である」と書いています。

車は今や、機械、電気関係が複雑、細分化されて自分の専門分野以外の不具合に原因があると、その分野の担当に責任転嫁してしまうという危険性があると書いてあります。

                            次号に続く。

 

 

                    

 

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                                        『私の手が語る』  挿絵より

 

今、半分読んだところですが、その中で相手の立場というタイトルの項で、本田氏が経営論を語られています。

狭い道で自分が自動車を運転している時は、歩行者が邪魔に見え、自分が自動車から降りて歩行者の立場になると自動車が危なく見えると。

自分が相手の立場になって考えると、運転も歩く人に優しい運転になり、歩行者も車の邪魔にならない様に歩いてくれる。

確かにその通りで、自分に有利な様に物事を進めるには、どうしても自分の立場を主張する傾向になってしまいがちになりますが、そうなるとお互いの意見を言い合うだけで、最後は感情的なすれ違いが出来て、それまでの関係さえも無くなってしまう事もあります。

人間どうし、感情と感情のぶつかり合いですから、なかなか難しいですが、一歩下がって冷静に考えろと言う翁の言葉と理解しました。

 

 

 

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『 私の手が語る 』   本田宗一郎著   講談社1982年発行

『 新リア王 上下 』    高村薫著    新潮社2005年発行

今週、仕事の移動中に立ち寄った福岡の久山にあるブックオフで買った3冊です。

郊外型のショッピングモールの中にあるため在庫もけた違いに多く、1時間位見て回り、買ったのがこの本です。定価の半額でしたが少し得した感じです。

ホンダ技研の創業者故本田宗一郎氏の本と高村薫さんの本ですが、「新リア王」は、5年位前に日本経済新聞に連載になった作品です。

新聞の連載は毎日読まないと、話が食い違ってきますが、ところどころ飛ばして読んだため、大体のストーリーしか覚えていませんが、上下揃っていたので最初から読みたくなり買いました。

ホンダの創業者、故本田宗一郎氏は、経営者として私が最も尊敬、崇拝している人です。

最初に読みかかったのがこの本です。出て30年近くなる本ですが、その内容は今でも十分役に立つ、経営哲学、思想、理念が書いてあり、あらためて翁の偉大さを感じました。

 

 

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社会を明るくする運動川柳シリーズ

 柔(やわら)の部 

 『 泣いたらいかん 投げたらいかん 人生は 』     晴れ姿十五枚はぜ賞   

『 ヤワラちゃん 投げずに投げて 金メダル 』2016年オリンピック委員会賞  

『 いかんぜよ 人生投げたら いかんぜよ  』     2010年大河ドラマ賞

『 喰えねども 浪花節だよ 人生は 』  国交省零細建築専門工事業部門

                   審査員特別賞(審査員木村友衛と細川タカシ)

『 喰わねども それが武士だよ 人生は 』           ニャンコ先生賞    

『 いつの日か ぴらっと 空中大回転 』 いなかっぺ大賞(天童よしみ部門賞)

『 花咲かそ いつかふるさと 後にして 』         花ちゃん菊ちゃん賞 

 

短歌の部(アラフォー後半部門)

 

『 道半ば ながい旅だよ 人生は

            いつか大きな花が咲くかも 』  地下足袋普及協会賞

 

暑い毎日、少しは寒くなっていただけたでしょうか?私の頭ではこれ位しか出てきません。

人生まさに長い旅、46年も生きていると色んな失敗、挫折、後悔、旅の恥は、かき捨てながら生きてきましたが、旅の終わりには大きな大輪の花を咲かせられる様に、前向きに生きていきたいと思います。

と、「明るくする運動」とは少し違う方向で終わってしまいましたが、心配無いと思いますが、全日本なんとか協会、なんとか委員会はフィクション、絵空事「すらごっつ」であり、実際の団体、人物とは一切関係ありません。(あったらスイマセン)

しかし、地下足袋普及協会はあるかも、いやあって欲しい団体です。(ヤフーで検索してみます。あったらそれこそスイマセン、、、。)

 

 

 

       

 

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『 ♪ 祝いめでたの若松さまよ、若松さまよ、枝も栄ゆりゃ葉も茂る、エイショウエ エイショウエ、、、♪ 』

福岡の町では、棟上げの祝いの席で親方衆がこの唄を歌います。

祝いの席では兄弟子から酒の指し方、もらい方を習います。一升瓶を右手で持ち、年長者には左手を添えて差す。目上の人からもらったら「いただきます」。

座敷の上(かみ)、下(しも)の座、賄いの役目など全て仕事を通して教わります。

全ては年季がものを言う世界ですから、目上の親方衆は絶対です。タバコを吹かしながら受け答えしようものなら死ぬ目をみます。

今では和室の座敷、床の間も隅の方に追いやられた家が多いですから、上も下も関係ないんでしょうが、今、見習い中の二十歳前の若手にも、最低限の礼儀や作法は教えていかなければ自分が恥をかきます。

普段着、茶髪で面接に来て、タメ口で会話して、タバコを吸いながら返事して、平気でごみを捨てて、、、、。

履歴書には書ききれない位の職歴。

子は親の言う通りにはしないで、親のする通りに真似すると言います。

そう言ってる自分もそうだったんでしょうが、仕事を習うよりも先に習うことが多い今の職人の修業事情です。

           全日本青少年健全育成連絡協議会長崎支部島原分科会

                         事務局長  晴れ姿15枚はぜ

 

 

                  

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「写真提供;wa☆daフォトギャラリー」 http://wadaphoto.jp/

 

今朝の博多の街は追い山で賑わったと思います。

私も福岡在住の頃、何度か追い山を見物に出かけました。

先日の集団山みせでソフトバンクホークスの前監督、王貞治さんが掻き山に台上がりされてましたが、締め込みに水法被(みずはっぴ)の姿が良く似合っていました。

重さ1トン以上の掻き山を勢い水を浴びながら櫛田神社の前を「おいさ、おいさ」の掛け声で駆け抜ける様は、まさに男の祭りといった感じです。

写真を見ると、掻き手の男衆の後を父親に手を引かれながら走って行く親子の姿が写っていますが、代々、続いて来たこの祭り、こんな子供の時から鍛えられて、将来の掻き手が育って行くんでしょうね。

私の地元、島原もあと1ヶ月すると、切子燈篭を下げた精霊船を担ぐ「精霊流し」があります。

博多山笠も以前は、もっと大きくて高い山、現在の飾り山みたいなのを掻いていたそうですが、やはり担いでこそ「山笠」、担いでこそ「精霊船」です。車を付けて押したら祭りになりません。

『 山笠があるけん博多たい、精霊船んあっせん島原たい!! 』    

                     全日本地下足袋普及連絡協議会島原支部

                           支部長   晴れ姿15枚はぜ

 

 

 

 

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今夜、近くの公民館で地元の小中学生の「社会を明るくする運動」に関しての、作文の発表会があり、聴きに行きました。

小学校から6年生2人と、中学生3人の生徒が多くの聴衆の前で堂々と自分の意見、考えを発表する姿に感動しました。

私も中1の長女、小2の長男、年長組の次女、3人の子供がいます。

家にいると、毎日喧嘩したり、泣いたり、わめいたり、賑やかな我が家です。これがもうすぐ来る夏休みにもなると、なお一層パワーアップします。

古い話ですが、夏休みといえば、なぜか思い出すのが押坂忍さんの「ベルトクイズQ&Q」です・・・。(約35年前の話です、、、。)

話が昔話になりそうなので戻しますが、特に印象に残ったのが中3の女子生徒の作文で、今の子供は自分達の子供時代とは比べ物にならない位のストレスや悩み、将来の不安、友達との関係に、子供なりに考え、悩みながら学校生活を送っているんだと思いながら聴いていました。

高校、そして、大学進学、就職と数年間の内にやって来る節目を、子供は子供なりの目線で将来の自分の道を見つけなければなりません。

今の、経済情勢、雇用環境を考えると、これ以上の厳しさは無い位の世の中ですが、そんな中にあっても、上の今夜もらった相田みつをの詩にあるように、どんな雑草でも立派な花を咲かせてそして、実をつけるように、失敗や、挫折を恐れずに、前に進んで行ってもらいたいと思います。

私も3人の父親ですが、自分がそうであった様に、子供には子供の、自分が夢中になれるもので自分の花を咲かせて欲しいと願います。

 

 

 

 

 

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今週からまた、中断していた島原城の塀に戻って来ました。

 

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御堀の回りを一周して点検してみると何ヶ所も割れています。

多分、そばの松の枝が折れて下の瓦を直撃したと思います。

 

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塀の下は、御覧の通りの石垣です。蓮の花が所どころ、綺麗に咲いていましたが、真上から真下を見ると相当高く感じられます。

外側からの作業は無理なので、内側からだけで作業しないといけません。

しかし、昔の人は重機も無いのによくこんな高い石垣を築いたなと感心します。

 

 

 

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今、ベストセラーの村上春樹さんの「1Q84」、ブック1、2ですが、未だに某大手「TUTAYA」さんでは在庫無しで買っていません。

新刊本はよっぽど関心が無いと買いませんが、今回は新聞、雑誌で話題になり、書店の売り上げランキングでもトップの売れ行きだそうで、読んでみようと昨日も書店にいきましたが、まだ入荷待ちの状態でした。

村上春樹さんの作品は今まで1冊も読んだ事はありません。

以前、「ノルウェイの森」か何かだったと思いますが、最初の数ページ読んでみましたが、諦めました。

というのも、読書好きの方なら皆さん同じ経験があると思いますが、最初の数ページ読んだだけでその世界に入って行って、一気に読める本と、反対にその本の世界に入って行けなくて、何ヶ月も読まない読みかけの本があると思います。

自分の場合、その典型が村上春樹さんの本です。

全ての作品がそうではないと思いますが、ある種の架空の空想の世界が描かれた物語が多いのが村上春樹作品の特徴だと思いますが、これだけ騒がれれば、どんな本か読んで見たくなります。

あの北方謙三さんも新聞のコラムで書いておられましたが、「読書とは、自分の心の中に街を作ること、心の中にアナザーワールドを作ることだ。」と。

本の食わず嫌いも、何か損している様な気もしないでもありませんが、今回は待ってでも買って読もうと思い、2,3日おきにツタヤに行ってますが、なかなか入ってきません。

しかし、これだけ売れていると言う事は、そうこうしている内にいつも御世話になっている某大手の「ブックオフ」に並ぶのが早いかもしれません。

 

 

 

                                                   

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7月7日号のJBのライブは、ネットで調べたら、1993年4月でした。

その昔、昭和40年代、母親がパーマ屋(美容室)に行くのは、子供の入学式、卒業式、授業参観の前日くらいでした。

JBの定番「おばさんパーマ」は当時のオバサマのトラディショナルな必須アイテム、ステータスでした。

最近は、めっきり見かけなくなりましたが、R&B、ソウルミュージックを語る上で欠かせないヘアスタイル、アフロヘアーとおばさんパーマ、ねるとんでソウルトレインの「ソウルとんねるず」と共に復活してもらいたいものです。

以上、高校の卒業式で無理してパンチパーマをかけて大仏になってしまった(パンチも見かけませんが)、私「ミスターダイナマイト」最近1000円床屋しか行かないソウルブラザーの、80年代から90年代前半のソウルフルな思い出をアルバムの紙ジャケットと共に回想、紹介してみました。

 

                      完

 

 

 

 

 

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 『そよ風の贈りもの』 ホイットニー・ヒューストン 1992年  

 

 

 

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『パープルレイン』  プリンス&ザ・レボリューション  1984年

 

 

 

 

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『ジェームス・ブラウン』 at 福岡国際センター

 

JBこと、ファンクの帝王ジェームスブラウンも1990年から1993年の間に観に行きました。

半券もパンフレットも無いので解りませんが、多分その前後と思います。

(MC) the star of the show

       hard-working mr.dynamite:jamesbrown!!

始めにMCの前フリの後、全身に異様なオーラを放ちながら登場したファンクの帝王、ジェームス・ブラウン。

当時、60歳前後だったと思いますが、もの凄いパワーを感じました。

前も書きましたが、「おそ松くん」のおでんを持ったハタ坊状態のステップとマイクスタンドのパフォーマンスでJBの足が8本位に見えました。

話は飛びますが、先日、いまだ心酔してやまない日本のロック界の大御所、今年還暦の矢沢永吉さんの東京ドーム公演のチケット発売日でした。

屋根の上で10時になるのを待って、自分と現場の従業員の携帯電話、計4回線で、ぴあとローソンチケットと分かれて30分近くリダイヤルを繰り返しましたが、だめでした。

東京ドームに何万人入るか知りませんが、30分で売り切れてナビダイヤルの素っ気無い女性の音声が流れてきました。

あとは武道館公演が何日間かあるそうなので、今度は事務所の固定電話も使って再度、挑みたいと思います・・・。

しかし、ファンクの帝王の異名を持つ、JBことジェームスブラウン、この時還暦を迎えていたとはとても思えない、まさに「hard-working」なしびれる様なパワフルなステージでした。

 

 

 

 

 

 

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ディスコ 「エアポート」ですが、DJからホール係になった宮史郎さんですが、結構世話好きなオジサンで、チークタイムになるとあぶれた男に、近くに一人でいる大人しい女の子の腕を無理やり掴んで一緒にするという、いかにもオジサンらしい一面もありました。(女の子は相当嫌がってました。)

そんな土曜の夜も終わり、当時、島原には無かったリンガーハットで深夜料金のちゃんぽんを食べてまた1時間かけて帰るという、今ではあり得ない青春を送っていたどこかの青年の思い出の1ページでした、、、。

 

 

 

 

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その頃、流れていたのがドナ・サマーや、ライオネル・リッチー、クール・アンド・ザ・ギャング、クインシージョーンズ、アースウィンドアンドファイアーでした。

シンクロの小谷美香子さんを見るとなぜかドナサマーを思い出します。

その「愛のコリーダ」のクインシージョーンズに見出されたマイケルジャクソンの1989年、福岡ドームのステージですが、まさに月を歩いている様なムーンウォーク、そしてサイドウォーク、まさに水平逆エスカレータ状態でした。

最近は、音楽の話題より、プライベートな話題で騒がれましたが、50年の生涯のほとんどを音楽に捧げたマイケルジャクソンの功績は素晴らしいものがあると思います。

私もファンの一人として心からの御冥福をお祈り申しあげます。    合掌

 

 

 

 

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今日のサンデーソングブックはモータウン特集でしたが、マイケルジャクソンをリアルタイムで聞き始めたのは1980年位からだったと思います。

「オフ・ザ・ウォ-ル」だったと思いますが、ビリージーンや、ビートイットの頃です。

その昔、昭和57年前後、諫早市青果市場近くに「エアポート」と言うディスコ、今で言うクラブがありました。近くには桃太郎がありました。あの桃太郎ではありません。あの桃太郎です、、、。

ディスコブームはとっくに過ぎていましたが、夜の娯楽が無い人口3万人の島原市、わざわざ1時間かけて通っていました。

その頃のディスコは、ホテルのバイキング風のフリードリンク、フリーフード、いってみれば「飲み放題、食べ放題」の踊ると言うより、入場料1500円位の晩飯を食べて音楽を聴きに行くような感覚だったと思います。

DJブースには見た感じ、ぴんから兄弟の宮史郎さん風の雰囲気的に演歌調の、夏なら半袖のワイシャツをズボンにシャツインしたような感じのオジサンがレコードを回していました。

普通、曲と曲をどこでつなげたか解らないように持っていくのがプロのDJだと思いますが、このオジサンの場合、違いました。

曲の終わる頃、無理やりぶち切って、全然違うテンポの曲を持って来てくっつけるといった無茶ブリ、ターンテーブルは一応2つあったんでしょうが、しばらくしたら、若い本職の方と交替していました。

 

                           次号に続く

 

 

 

 

 

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sunstar tonic presents

『soul tour 009』  クレイジーケンバンド at zepp fukuoka

 

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今日は久しぶりにヤフードームにやって来ました。

と言っても、ソフトバンクホークスの応援ではなく、西側ゲート向かい側にある→

 

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ゼップ福岡にクレイジーケンバンドのライブを観に来ました。

 

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約3時間のお笑い芸人並みに爆笑できたライブでした。

一年ぶりのゼップですが、ライブハウスならではの近さと熱気で大変盛り上がりました。

東洋一のサウンドマシーンと言うだけあって、MCも絶好調の剣さんに、30年前の島原文化会館大ホールの剣さんが重なって見えました。

 

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隣は、でかいギターのネオンのハードロックカフェです。

しかし、待ち時間を入れて3時間半のオールスタンディングは、相当こたえました、、、。

 

 

 

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下屋の屋根が終わり、これで全ての作業が完了しました。

 

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今年1月から入って、途中2ヶ月抜けて今日、無事、全工程が終わりました。

来週はアパートを掃除、荷物を出して引き渡せば完了です。

この1週間足らずの仕事のために、留守のアパートの家賃を2ヶ月分も払ってしまいました、、、。

下の階のフィリピンの青年団もいつの間にか見かけなくなってしまいました。

今年は年末から来年にかけて、ここより一回り大きい御堂に入る予定です。

いつも思う事ですが、あと20年、30年経てば、自分が生きているか、死んでいるか分かりませんが、自分が手がけた仕事が良くても悪くても、残っていくという怖さと責任感を感じます。

現役で何歳まで葺けるか分かりませんが、それまでに自分の片腕になってくれる人材を、一人でも多く育てておかないといけません。

 

 

 

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先日、マイケルジャクソンが急死したというニュースがありましたが、50歳の若さでこの世からいなくなるとは残念でなりません。

今月、ロンドンでの公演を控えていたそうですが、今となっては御冥福を祈るしか方法がありません。

平成元年だったと思いますが、福岡ドームで一度ステージを観た事があります。

ドームが完成して初めてのライブ公演となったのが、マイケルジャクソンだと記憶していますが、2年前の1987年は日本の大都市数ヶ所でコンサートがありましたが、この年はここ福岡だけだったと思います。

開演前、アリーナ席の中央には、とんねるずのあの方が数人のスタッフの方と一緒に来場して回りの観客が大騒動していたのを思い出します。(ライオネルリッチーのモノマネをしていた方です。)

とんねるずと言えばソウルトレインの「ソウルとんねるず」やPVのパロディーを演ってましたが、昨日ねるとんを見ていたら、当時の映像が出ていましたが、今見ても完成度の高いマイケルのPVに憲さんの相当な思い入れを感じました。   合掌

 

                  次号に続く

 

 

 

 

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「西岡常一と語る木の家は三百年」 原田紀子著   農文協

「カメラマンからカワラマンへ」 山田脩二著      筑摩書房

「室生寺五重塔千二百年の生命」 松田敏行著    祥伝社

 

 

 

 

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「君に成功を贈る」 中村天風著   日本経営合理化協会

「きっと、よくなる」 本田健著     サンマーク出版

「常勝の法」 大川隆法著       幸福の科学出版